「ことば」を訳して、「わたし」を見つける旅へ
はじめまして。
このページに来てくださり、本当にありがとうございます。
フリーランスの映像翻訳者として活動しながら、幼い姉弟の育児にも日々向き合っているしおりです。
字幕や吹替を訳す仕事をしつつ、今は「翻訳思考ファシリテーター」という新しい肩書きでも活動を始めています。
このブログは、もともと翻訳学習の備忘録としてスタートしましたが、いまでは“翻訳”という営みをもっと広く深く捉え直しながら、
「わたし自身のことばを探す場所」として、少しずつ形を変えて育てているところです。
ここでは、これまでの歩み、翻訳との出会い、そして今考えていることを、ゆっくりとお話しさせてください。
ドラマを観ていた“あの瞬間”から、すべてが始まった
2018年の冬のある日。
育児の合間に観ていた海外ドラマ。
何気なくついていた字幕を眺めていたとき、ふと心に灯がともるような感覚がありました。
「これだ。私、この仕事がしたい。」
それは突然のひらめきでありながら、今思えばずっと奥底に眠っていた想いに触れた瞬間だったのかもしれません。
当時の私は、子育てに追われ、前職(金融業界)から離れ、これからどう生きていけばいいのか見えなくなっていた時期でした。
「映像翻訳者になりたい」と決めてからは、通信講座や通学スクールを経て、がむしゃらに学びを積み重ねました。
思うように進めない日も、自己嫌悪に陥る日もたくさんありましたが、
2021年、無事に最初の案件をいただき、プロとしての一歩を踏み出しました。
翻訳の学習遍歴についてはこちらの記事にまとめています。

翻訳の仕事は、単なる「ことばの置き換え」じゃなかった
それから今日まで、映画やドラマ、ドキュメンタリー、ミュージカル、ナレーション台本、歌詞など、さまざまなジャンルの映像を翻訳してきました。
その中で、私は“翻訳”の奥深さに何度も驚かされてきました。
映像翻訳の仕事とは、原文の意味を正確に日本語へ移すこと――
それが基本であることは間違いありません。
けれど、その一文一文の裏には、登場人物の背景、感情の揺らぎ、話し方の癖、沈黙に込められた意味、
さらには画面に映らない空気や余韻までもが存在しています。
特に字幕や吹替の翻訳では、限られた尺や文字数の中で、
そうした“言葉にならない情報”をどうすくい上げ、
映像と調和する日本語に再構築できるかが大きな鍵になります。
原文と一対一で対応する“翻訳”というよりも、
そのセリフの奥にある人生や文脈をまるごと受けとめて、
日本語で新たなかたちに立ち上げていく作業――
それが、私にとっての「映像翻訳」の魅力であり、醍醐味です。
母になって見えてきた、もうひとつの翻訳のかたち
映像翻訳の仕事を在宅で続けながら、まだまだ手のかかる姉弟の育児にも向き合う毎日。
子どもたちの成長に寄り添う中で、ふとした言葉や仕草に心を揺さぶられる瞬間が、日々訪れます。
そうした日常の中で、私は次第に考えるようになりました。
私が仕事として取り組んでいる“翻訳”は、あくまでも狭義の翻訳――
つまり、すでに形になった誰かの表現を、別の言語に置き換えて届ける営みであると。
そして、それだけが翻訳ではない、とも。
たとえば、目の前の誰かの気持ちをすくいあげて、
その人自身もまだ言葉にできていない感情を、より伝わりやすい形でそっと差し出すこと。
あるいは、自分の中にある曖昧な想いや違和感を、丁寧に言語化していくこと。
こうした行為もまた、広い意味での“翻訳”なのではないかと思うようになりました。
翻訳者である前に、私は一人の人間であり、そして母でもあります。
毎日の生活の中で、子どもたちと過ごす何気ない時間――
そこで出会う小さな驚きや、言葉にならない感情に向き合うたびに、
私は「自分は今、何を感じているんだろう?」と立ち止まり、考えるようになりました。
その気持ちに静かに名前をつけて、言葉にしてみること。
モヤモヤや違和感を無視せずに、丁寧にほどいていくこと。
それは、原文の奥にある想いや背景をすくい取り、
別の言語で丁寧に訳す「翻訳」のプロセスと、どこか似ている気がするのです。
自分の内側にある声に耳をすませ、すくい上げ、ことばにしていく――
そんな営みそのものが、私にとっての“広い意味での翻訳”であり、
そして「自分らしく生きる」ための大切な軸になっています。
そして今、「翻訳思考ファシリテーター」としての挑戦へ
そんなふうに、翻訳という仕事を通して言葉の奥にあるものを汲み取ろうとする中で、
そして、日常のなかで自分自身や身近な人の“まだ言葉になっていない想い”に向き合い続ける中で、
私は次第にある問いを抱くようになりました。
「翻訳の技術は、言語の枠を超えて、人の心にも使えるのではないか?」
作品の登場人物を訳すとき、私はいつも、その言葉の奥にある感情や背景に耳を澄ませています。
セリフの裏に流れる空気や沈黙までも、そっとすくい上げて、
映像と響き合うことばへと編み直していく――それが、数年かけて積み重ねてきた私なりの“翻訳の型”です。
そしてあるとき、ふと思ったのです。
この技術や感覚を、もっと広い場面に応用できるのではないか。
誰かの助けになれるかもしれない。
そして、何より自分自身をも救うものなのではないか、と。
たとえば、目の前の誰かの「うまく言えない気持ち」にそっと寄り添い、
その人自身もまだ気づいていない想いを、やさしく、伝わりやすい形にして差し出すこと。
あるいは、自分の中にある曖昧な感情や違和感に向き合いながら、
少しずつ言葉を編み、やっとの思いで外に出してみること。
それもまた、「翻訳」と呼べるのではないか――
そんな感覚が、静かに、でも確かに、私の中で根づいていきました。
私はそれを、「翻訳思考」と名づけました。
“ことばにしにくい想い”を、どうすれば丁寧に、やさしく、届くかたちに訳せるか。
その問いに向き合いながら、自分の声とも、誰かの気持ちとも、誠実につながろうとする試みです。
翻訳という技術は、ただ言語を置き換えるためのものではありません。
自己理解や人との関係、創作や発信といった日常のあらゆる場面においても、
深くてしなやかな「思考の道具」になり得る――私はそう信じています。
このブログでは、かつての私を支えた翻訳学習の記録だけでなく、
いま感じている迷いや気づき、そして「翻訳」という行為を通じて見えてきた、“生き方そのもの”を綴っていきます。
完璧な言葉じゃなくてもいい。
うまく言えないところから始まる何かを、大切にしていきたいと思っています。
このブログについて:過去・現在・未来の自分のために
このブログは、かつての自分が何度も検索しては手がかりを探していたように、
誰かの「一歩目」に寄り添えるような場所にしたいと思っています。
そしてなにより、
書くことによって、私自身の“翻訳者としての軸”を見つけていく場所でもあります。
過去の記事には、翻訳スクール選びや勉強法、挫折や手探りの日々など、
当時のリアルな記録がそのまま残っています。
これからも、映像翻訳や言葉にまつわる学びはもちろん、
子育てと仕事の両立に揺れる日々や、
自分の気持ちをどう言葉にしていくか――そんな試行錯誤も、ここに綴っていきたいと思っています。
正解のない日々のなかで、どうやって自分の声を見つけていくか。
その過程こそが、誰かの背中をそっと押すこともあると信じているからです。
この先の自分がどう変化していくのか、正直まだわかりません。
でも、「翻訳」という営みを通じて、
“わたしらしい生き方”を少しずつ育てていけたらいいなと思っています。
もしこの場所が、どこかで誰かの「ことばにならない想い」と響き合えたら――
それほど嬉しいことはありません。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
